英語も話せないし飛行機も苦手、それでも個人手配で海外旅行

交通費嫌い。飛行機は苦手だけどヨーロッパ大好き。空港ラウンジ目的でSFC修行済み。休暇の取れない勤め人。

【ANA SFC修行 長崎】2日目-1 遠藤周作「沈黙」の舞台をめぐる 黒崎地区

2018年(平成30年)10月21日(日)  
 
ANAの上級資格を取るべく思い立ったマイル修行の一環で、長崎へ1泊2日で来ています。
前回記事はこちら。
長崎へは何度も旅行の候補になっています。ハウステンボス雲仙温泉も含め、ベタな観光地は既に社員旅行で回っていたので、どこか違うところへ行こうと目論んでいました。
 
佐世保や平戸へも行ってみたかったのですが、自力では行けないところにツアーで参加してみることを思いつきました。それがこれ。遠藤周作沈黙」の舞台をめぐるツアーです。 
 
私が遠藤周作の「沈黙」を読んだのは7~8年前だったでしょうか。去年映画化されましたが、予告編の磔のシーンがあまりに凄惨で観る勇気が出ず、やっと観たのは、去年のGWにクロアチアへ行ったときの機内映画でした。
 
それにしてもこのパンフレット、ちょっとまずいですよね。
「そとめ」という言葉が何かわかる人が、どれだけいるんでしょう?これは「外海」という地区の名前なんです。1955年神浦村と黒崎村が合体して外海村となり、1960年町制。そして、2005年長崎市編入されています。
地元民向けに作ったパンフレットならともかく、遠方の人を呼び込むためなら、もうちょっと違う名前を付けた方がいいんじゃないかと思いました。 
 
集合場所に行くと、マイクロバスが停まっていました。総勢16名のツアーです。
 
まず最初に向かったのは黒崎地区
潜伏キリシタンの資料館があり、そこでかくれキリシタンの方の説明を聞きました。歴史に学ぶだけのキリシタン弾圧の舞台、地元の人たちにどういう想いがあるのか。
 
その方の話とガイドさんの説明を併せて、キリシタンの話を少し書いてみましょう。
ここ大村領は初のキリシタン大名が治めていました。そして大村領内のほとんどの領民が、藩主の勧めでキリシタンになりました。このキリシタン大名大村純忠は、長崎に港を開いて南蛮貿易を広め、日本の文化、社会の近代化の一役を担った人でもあります。しかし、息子が日蓮宗に改宗しキリシタンの迫害者となりました。
 
キリスト教禁教令が出されたあとも、弾圧の中で多くのキリシタンたちが、ひそかに信仰を守っていました。(これを「潜伏キリシタン」と言います。)
ところが、第4代藩主の時代に多くの潜伏キリシタンが発覚し、その群村603名が逮捕され406名が処刑されました。禁教令から45年も経過しているというのに、これほど多くのキリシタンがまだいる、そのことは藩の存亡を揺るがす大事件だったんですね。
ここから、大村領の吟味は相当厳しくなりました。
 
この黒崎地区は今回の世界遺産の指定からは外れましたが、まさにここが遠藤周作の「沈黙」の舞台となった村なのだそうです。 
 
回った順番とは前後するのですが、ここで枯松神社の話に移りましょう。
枯松神社というのは、外国人宣教師サン・ジワン神父を祀るキリシタン神社です。キリシタンであることを隠すためにカモフラージュとして神社を建てました。日本に3ヶ所しかないといわれてるキリシタン神社のひとつです。サン・ジワン神父の話はあまりわかっていませんが、この迫害の時代において、彼らに勇気と希望を与えました。
 
枯松神社へ向かう道はこちらからです。
外海は温石(おんじゃく)と呼ばれる平べったい結晶片岩が採れる土地柄で、地元では台所の竈や土台、家の周りの石垣などに結晶片岩を積み上げていました。ここにもそれが見られます。 
 
神社へ向かう途中には祈りの岩があります。
迫害時代にキリシタンたちは悲しみ節の夜にここに来て、寒さに耐えこの岩影でオラショ(=祈り)を唱えていたと伝えられています。かなり巨大な岩で、人が座れば屋根になるような空間があります。11月3日に行われる枯松神社祭の前には、ここでオラショの練習をするそうです。

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ここが枯松神社です。
キリシタン弾圧で、この地区の宗教は分かれていきます。のちにローマカトリック教会に復帰した元キリシタン、いまなお黒崎教会で独自の立場を取るキリシタン(かくれキリシタンという)、迫害ののち寺の檀家になることを決めた元キリシタン。分かれてしまったことで感情的に溝ができてしまった黒崎地区。それは現在にまで続いています。
先に書いた枯松神社祭は彼らを融合させ、一緒に先祖たちの供養をしようと働きかけて2000年から開催されています。宗教を越え、彼らが一堂に会しての式典です。 

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神社の中も見せてもらえました。 
神社には、奥にサン・ジワン神父を祀ってあるのですが、手前左に枯れ松も奉納されています。これは、サン・ジワン神父が埋葬された山頂にあった枯れ松の根っこだそうです。この地区は、もとはサン・ジワン神父を中心にした関わりでしたからね。
 
枯松神社の周りには、かくれキリシタンの墓の跡が残っています。この平たい石がお墓でした。今は他の場所に埋葬されているそうですが、この上に石を十字に置き、祈りが終わるとその石を除け、キリシタンの墓であるとわからないようにしました。
いくつか墓跡を見ましたが、ここは十字に石が置かれたままですね。 
 
日本が信教の自由を保障すると記したのは、1889年になってからです。明治政府になっても切支丹邪宗門厳禁の高札を掲げていましたが、国際法遵守の外圧によって、ようやく大日本帝国憲法で明記されました。 
 
この黒崎教会は1897年にド・ロ神父の指導で敷地が造成され、1899年から建設計画が進行、1920年に完成ししています。このド・ロ神父の話は次回書きますが、たった20数名の村民たち自らの手で建てられたのだそうです。

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この教会は、内部の撮影が許されていませんでしたが、鮮やかな色のリブ・ヴォールト天井に、イタリア製のステンドグラスが入れられ、質素だけれど美しい教会でした。
 
かくれキリシタンの方からの話から始まったこのツアー、かなり深く揺さぶられる出だしとなりました。
次回の記事はこちら。