2018年(平成30年)10月28日(日)
ANAの上級資格を取るべく思い立ったSFC修行の一環で、沖縄へ日帰りで来ています。
前回記事はこちら。
首里城へは一度行ったことがあります。たぶん、世界遺産登録がされたばかりのころで、非常に観光客が多く、有料区域内には入らなかったことを覚えています。
おお! ここははっきり覚えていました。世界遺産登録を受けた園比屋武御獄石門(そのひゃんうたきいしもん)ですね。石門の背後に園比屋武御嶽という森があり、そこはいわば国家の聖地で、国王が各地を巡航する旅に出る際、必ず安全祈願をした礼拝所です。でも、わからずに写している私は、背後の森のことは無視していますね。
首里城はひたすら門が続きますが、続いては歓會門です。両端下にシーサーがいるんですが、見えないですね~
瑞泉門をくぐってまたひとつ城内へ。城郭は二重になっており、ここからが内郭になります。
首里城の観光客の8割ぐらいは大陸からの観光客かというほど大挙して押しかけてきていました。いちいち自撮りするのでちっとも進まない。
漏刻門
当時身分の高い役人は駕籠に乗って首里城へ登城しましたが、高官でも国王に敬意を表し、この場所で駕籠から下りたので、別名かご居せ御門(うじょう)と呼ばれています。
右に目をやると、沖縄県立芸術大学も見えます。沖縄らしい校舎の様子がよくわかりますね。
廣福門
内郭には大小8つの門があり、これをくぐると券売所。ゆいレールの一日乗車券を提示し、団体料金に割引してもらいました。
奉神門
首里城正殿のある御庭(うなー)へ入る最後の門です。前回はこの手前で引き返しました。
入ると正殿が正面にあり、手前が中庭広場の空間御庭(うなー)。年間を通じて様々な儀式が行われた広場です。御庭には磚(せん)というタイル状のものが敷かれ、色違いの列になっていますが、儀式の際に諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割を持っていました。
中央の道を浮道(うきみち)といい、国王や中国皇帝の使者である冊封使(さっぽうし)等、限られた人だけが通ることを許されていたそうです。
中央の道を浮道(うきみち)といい、国王や中国皇帝の使者である冊封使(さっぽうし)等、限られた人だけが通ることを許されていたそうです。
でもこの正殿、よく見てください。修復作業中で下の方がパネルなんです。前もそんなだった。
正殿内部は写真撮影不可の場所が多かったのですが、琉球王国は難しい。まったく馴染みがないので、その言葉が何を指すのかが難しかったです。
1階(下庫理しちゃぐい)は、国王みずからが政治や儀式を執り行う場所
2階(上庫理うふぐい)は国王や親族、神女たちが儀式などを行う場所
3階は通風を目的とした屋根裏部屋でした
対して1階の御差床(うさすか)は政治や儀式のときに使用した玉座です。うしろに2階に通じる階段が見えます。柱が豪華。金龍と五色の雲が描かれています。
御先神子齋(おせんみこちゃ)
この右の部屋は国王みずから女官とともに毎朝東方を拝んでいたところです。首里城の火の神(家の守り神)信仰の中枢で、身分の高い神女の任命儀式などもここで行われていました。
清朝から与えられた王印です。この前には明朝からも与えらえています。
国王の王冠が復元されていました。
有料区域の見どころはそう多くないとも言えるのですが、のんびり回っていると、いつもとは違った見方ができますね。しかもここは土足禁止区域。靴擦れもあったので助かりました。いつまでもここにいたかったぐらい。
とにかく何でも見てみたい私、せっかくのひとり旅。靴擦れは痛いけれど、やっぱり行かずにはいられません。
※この1年後の2019年(令和元年)10月31日、火災により正殿と北殿、南殿が全焼しています。歴史上5度目の焼失だそうですが、30年に渡る復元工事を終えてようやく1月に完成したばかりだった首里城が失われたことは、地元の人たちにとってどれほどの衝撃だったことか。訪れた記憶の新しかった私もとてもショックを受けました。再建を願ってやみません。
首里城を下り道路を渡ってしばらく行くと、その入り口がありました。なんか、地味。人の気配もありませんが、1人の欧米人が券売所の人に会釈して出てくるのを見て、せっかくだから見てみようという気になりました。
そして、そのとき、思い出したのです。玉陵(たまうどぅん)の話は、こにゃくうさんのブログで読んだぞ!そうそう。このおうどんっぽい名前、なに?って思いますもんね。
詳しくはそちらがわかりやすいので、解説はそちらに委ねます(横着すぎ)
一応、 入口の解説によると、
玉陵は1501年尚真(しょうしん)王が父尚円(しょうえん)王の遺骨を改葬するために築かれ第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は三つに分かれ中室は洗骨(せんこつ)前の遺骸を安置する部屋。創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には墓前の庭の王陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体のつくりは当時の板葺屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓域は2442㎡。
この洗骨の説明も、先ほどのこにゃくうさんのブログで説明されていますが、ちょっとばかり、コワイです。
観覧料は300円。券売所で、ちらっとゆいレールの一日乗車券割引を思い出しましたが、ざっと見たところ貼っていないようだったので、そのままお支払いしました。でもあとで見たら、やはりこちらも団体料金で240円。たった60円のことだけど、ちょっと悔しかった。
まずは、地下の資料展示室を見てからのほうが良くわかると教わったので、そちらへ向かいました。そこまで親切なんだったら一日乗車券のこともひとこと言ってよ~(←しつこい)
資料室には、歴代の逗子甕(=骨壺)が展示してありました。逗子甕(ジーシガーミ)は洗骨後の遺骨を納める納骨器です。
実際の逗子甕も置いてありましたが、かなり大きかったです。右は18世紀初頭、左は20世紀初頭のもので、コバルトの釉薬が掛けられています。
玉陵(たまうどぅん)へは大きなガジュマルの並木道を通って行きます。日除けの意味もあるんでしょうかね~
奥に見えるオレンジ色の屋根の建物は東の御番所(あがりぬうばんじゅ)といい、沖縄戦まで沖縄戦前までお墓を守る番人がお墓の管理をしていました。王国時代には墓参りに来た王様が休憩をしたところです。そして、玉陵は右手の壁の向こう。
中へ進むには、この門から入るようですね。
まずは、ちょっと覗いてみましょう。なんせ洗骨するまでどの部屋かに亡骸を置いておくんでしょう?ちょっとコワい気がしてしまいますよね。
むむっ? 奥にまだ門が見えるぞ。
よしっ 入ってみましょう。
ひとつめの門を入ると、広場になっています。この外郭は四方を石積みの塀で囲まれています。
もうひとつ入ると、内郭。ここも四方は囲まれています。
逆光なので見えにくいのですが、並べてみるとこんな感じ?
東室と中室(くどいけど葬儀後「洗骨」までのあいだ遺体が安置されるところ)
右側に西室
東室には洗骨後の国王と王妃の骨壺が、その他は西室に収められます。
上にはやっぱりシーサーが鎮座しているんですよね~
「西室には墓前の庭の王陵碑に記されている限られた家族が葬られました」とあるように、確かに外郭に石碑がありました。
この広い陵墓を独り占めしていたもので、ちょっとばかり厳かな気分になって、あれやこれや撮れなかったんですよね。でもこの玉陵は団体割引にし損ねましたが(まだしつこく言ってる)、地味だけれど見学してよかったと思いました。
天気が悪くて暗かったら、ちょっとコワいかもしれませんけど。
靴擦れは痛いけど、金城町石畳通りも行ってみましょう。
次回記事はこちら。