スプリトの市場の次は、世界遺産になっている旧市街を見ていきましょう。
スプリトの旧市街は、3世紀末から4世紀にかけてローマ皇帝ディオクレティアヌスが隠居後を過ごすために建てた宮殿を起源とする街です。
ディオクレティアヌスの死後、ローマ帝国が衰退していく中で、スプリトに住んでいた民族は勢力図によって入れ替わっていきますが、やがて数百年に渡って廃墟となります。
人々が戻り始めたのは7世紀に入ってから。宮殿の石材などを再利用して、自分たちの棲み処を建て始めました。今の旧市街の原型はここにあります。
まずは地図を見ましょう。
ホテルで入手した地図によると、スプリトの全体はこんな感じ。
左側のグリーンゾーンが、前日夜景を見に行ったマルヤンの丘です。
スプリト旧市街はマルヤンの丘の東側。中でも、ディオクレティアヌス宮殿は黒く囲った城壁の内側になります。宮殿へ入る門は4つ。
私が泊まっているホテルは西門のすぐ脇。
時計台の下が鉄の門と呼ばれる西門です。ここが当時一番自由に通行を許可されていた門だそうです。
この鉄の門を通ったとき、愉快なシーンを見ましたよ。これ、何をしているところだと思いますか?
体重を図っているんです!おばさんが体重計をここへ置いていたのですが、誰が乗るんだろう?と笑って通り過ぎた直後に振り向いたら、なんと乗っている人がいるではないですか!
確か、何かのテレビで体重を量るのが好きな国民がどこかにいると見た覚えがありますが・・・(笑
10分ほどして再びここを通ったときには、おばさんはもういませんでした。体重計、重いだろうに。ひとり量ればノルマ達成とか?
鉄の門は通り過ぎてから見るほうがわかりやすいです。
これで城壁内のメイン通りなのですから、ほんとこじんまりしています。
鉄の門からペリスティル広場のそばを通っていくと、東門に到着します。青空市場へ行くのに一番近い門で、銀の門と呼ばれています。
銀の門を出ると、シーズン中はずらりとお土産物屋さんなどの露店が並んでいるようです。
門の外からは鐘楼が見えます。
北門は、前日にも通った金の門。
このてっぺんのレンガで補修された箇所に、実は小さな教会があるんだそうです。細い階段を上った先に扉があり、幅はほんの1.64m、奥行き10mという狭い空間に聖マルティン教会があります。空いていたのに、行ってみたかったなぁ・・・
門の上に位置する四角い突起部分を下から見上げると、ケンタウロスの顔が掘り込まれているそうです。こちらも、知る人ぞ知るスポット。おそらく魔除けの意味だろうと推測されています。
金の門に外から近づくときに出会うのが、塔の傍のグルグール像。
もっと近づいてみましょう。近くを歩いている人と比べると、この像の大きさがわかります。
このグルグール・ニンスキは10世紀の司教です。当時開かれた宗教会議で、教会でのスラヴ語の使用を禁止し、ラテン語に統一すると決定されていました。しかしスプリト市民の母語であるスラブ語でなければ、市民がキリスト教を理解することができません。そこで、スラブ語でのキリスト教指導を行い、母語でのキリスト教の保護と布教に大きく貢献ししました。
こにゃくうさん情報によるとこの像は切って分断され、隠されていた時期もあるとかで、その傷跡も見てきました。太もも当たりの位置に横線が見えるのですが、私の画像では無理っぽい。こにゃくうさんのブログでぜひご確認を!
左足の親指を触れば願いが叶うとかいう、毎度おなじみの一説があるパワースポットでもあります。
もとはペリスティル広場にあったこの像は、第一次世界大戦後のイタリア統治時代にこの位置に移されたそうですが、元の場所にあったらひときわこの大きさを感じられたことでしょう。
最後は、スプリト到着時にも見た北門の青銅の門です。
もとはグルグール・ニンスキ像があったというペリスティル広場の正面に、地下へ下りる階段が見えています。今はお土産物屋さんになっているその地下宮殿を抜けると青銅の門から外へ出ます。
出た先がこちら。わかりにくいですよね。
近づいても、中の気配がまったくわかりません。
前日、到着したときの写真を見ても、知らなければ気づきにくいですよね。
青銅の門を出ればリヴァと呼ばれる海沿いの活気ある通りが広がっています。
でも、城壁の外の話はまたあとにして、先に城壁内の話をもう少し続けます。