皆さま、今日はいかがお過ごしでしたか。
私は在宅勤務だったので、自宅であの時間を迎えました。
あの日、私は当時の勤務地だった横浜駅にほど近い会社内におり、たまたまひとりでした。
突然の揺れ、頭の中は何が何だかわからない状態で、机の両端に必死で掴まってやり過ごすのがやっと。机の下に隠れるという、小学生のころに習った防災の基本など、頭ではわかっていても実行できる状態ではありませんでした。
隣の倉庫で、ドサドサと書類保存箱が落ちる音を確かに聞きながら、声すら出せず恐怖に震えていました。
揺れが収まって程なく同僚2人が戻ってきて、近くの公園へ避難しました。
スポーツクラブのスタッフが、メンバーさんを引率して非難しているのに遭遇しました。
散髪の途中だった人が、仕上げをしてもらっていた光景も覚えています。
まだスマホの時代ではなく、それでも携帯の動画で事態を知りました。
ただ、津波の情報はその時点はまだなかったと思います。
しばらくして会社に戻っても残りのメンバーが戻って来ず、施錠して帰宅していいものやら悩んだことも、よく覚えています。
自分の身の安全を第一に考えられないのは、たぶんパニック状態だったからではなく、日本人の性なんでしょうか。きっと今日でも、自分本位には動けないような気がします。
17時を回って、ようやく帰宅の途につくことにしました。
横浜駅は既にごった返しており、駅に近づくことなく徒歩を選択しました。
同じような人たちはあちこちにおり、どこか高揚した雰囲気がありました。
ハイヒールを諦め、靴屋ではなく道具屋で靴を調達している若い女の子がいたりしました。
コンビニはどこも盛況でした。
でも、食べ物を調達しようと考えることもなく、黙々と歩き続けました。
そう。このときはまだ、転勤後1年余りで土地勘がなく、いつ家へ辿り着けるか不安で仕方がなかったのです。
やがて、あれほど賑やかだった徒歩組もいつの間にかいなくなり、あたりにすっかり人気がなくなったころ、停電している地区を通りました。
車は通るけれど、街に灯りはない。
ひっそりした暗い道を歩きながら、ひどく心細くなったものです。
明るいというだけで、どれだけ人は救われることか。
あともう少しだろうというところで標識を見たとき、果たしてどちらへ行けばいいのかわからなくなりました。今にして思い返してみると、そこまで帰ってきているのに随分遠回りをしていたようです。
ようやく自宅に到着したのは、横浜を出てから6時間歩き通した深夜。
家に入ると自宅は何ら変わりなく、ただひとつ、カウンターに立てかけていた写真が落ちていただけでした。
そしてもうひとつ幸いだったのは、娘がこの日は旅行で当地を離れていたことでした。あれがなかったら、自分のこと以外の心配がもっと募ったことだろうと思います。
それでも、震災以降3年ほど、フラッシュバックに悩まされたと記憶しています。
実家の母の気遣いの電話も、離れた地にいる人にとってはやはり他人事。
何もなかったと告げた後に続けられる日常の会話には、経験していなければ臨場感がないのだから当然と思いつつも、どこか無神経に感じて傷ついたものです。
この経験は、今も被災地の人たちにあることでしょう。
横浜にいた私ですらこれ。
何の被害もなくてこれ。
どんなに寄り添おうとしても寄り添えない。
そのことは、忘れてはいけないと思っています。
かける言葉もない。
決して忘れないと言っていいのかもわからない。
この日を記憶からなくしたい人も、きっといる。
そんな人たちが、あの後にも続いた地震や台風で、あちこちにいるだろうことを。
生と死は、あの日、紙一重だったのでしょう。
横浜駅は埋め立てられていて見えないものの、実は海がすぐそこ。
避難した公園は海抜0m区域で、もし津波が押し寄せていたら私も逃げ場を失っていたに違いありません。
今、家を建て替えようか、他所で新築しようかと考えつつも、どこかブレーキがかかるのは、いずれ起きるだろう次の地震を想像してしまうから。
海老蔵さんの5月という呟きも、実は気にせずにはいられません。
10年。
ただただ、今日は合掌。