英語も話せないし飛行機も苦手、それでも個人手配で海外旅行

交通費嫌い。飛行機は苦手だけどヨーロッパ大好き。空港ラウンジ目的でSFC修行済み。休暇の取れない勤め人。

【京都】晩秋の古都 知恩院から天台宗青蓮院門跡へ

2021年(令和3年)11月28日(日)

 

放っておいてもANAプラチナステータス継続の招待があることも知らず、せめてブロンズステータスを達成させようとフライトを重ねた11月後半。これはその第3弾、招待が届いたもののキャンセルできず、大阪空港から京都へ行った話です。前回は京都東山山頂にある将軍塚青龍殿から京都市内を眺め、紅葉を楽しんだ話を書きました。

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京都一周トレイルに入り、青蓮院へ下りようと歩き始めました。途中、特に分かれ道もなく迷う箇所もなかったはずなのに、なんだか下ってばかり。ちょっと違う気がする・・・何人かすれ違ったので聞けばよかったのですが、迷子になるわけでもないし下っちゃいます。

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前日が雨だったのか濡れていてものすごく滑りやすかったので、気を取られているうちに間違ったんだろうか。前に大分県中津の羅漢寺へ行ったときも、下りが恐ろしく怖かったことを思い出しました。もしかすると、年齢とともに下れなくなっているのかな(汗

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途中で標識を見つけたときに、やっぱり違う道を歩いていることがわかました。でも、戻ったからといって正しい道が見つけられるようにも思わなかったので、残念だけどそのまま下ります。

到着したのは知恩院の大鐘楼の傍でした。

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この大鐘楼は1678年に造営されたもので、釣鐘の高さは3.3m×直径2.8m、重さ70tという大鐘です。でも鐘の大きさよりも、鐘楼の大きさが目を引きます。

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多くの方が一度は目にしたことがあるはずなのは除夜の鐘で、親綱1人子綱16名の17人で撞くのですが、1人が鐘を背に天を向き倒れんばかりにして打ち鳴らすと言えば、思い出されるのではないでしょうか。


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知恩院は浄土宗の総本山である寺院です。現在の御影堂は、幅45m×奥行35mの建物に幅3mの外縁を巡らせた壮大な建物。1639年徳川家康の命によって再建されたもので国宝となっています。中では読経が聞こえていたものの、広すぎて姿は見つけられず・・・全貌を写すには、向かいの建物ぎりぎりまで下がらないと入らない。

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隣に建つ阿弥陀堂はもっとも近年に再建されたもので明治期築。

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黒門から出ましたが、あれ?知恩院三門って見ておくべきだったよね。

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そうそう、こちらです。1621年徳川2代将軍秀忠の命により建立。幅50m×高さ24m、屋根瓦約7万枚!!!幅は外縁までを含めた御影堂とほぼ同じサイズで、国内最大級の木造の門です。

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正面に掲げられている「華頂山」の額の大きさは畳2畳以上の大きさですって。この楼上は年に2度特別公開が行われているので、足を運んでみたいです。

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知恩院と今回の目的地の青蓮院門跡はすぐ隣。1788年の天明の大火によって御所が焼失したときに仮御所になったことから、粟田御所の別名でも呼ばれています。門跡寺院とは、皇族や公家が住職を務める寺院のことですから、そんなふうにも深く関わってきているんですね。

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楠の大木は敷地内のものを含めて5本ありますが、親鸞のお手植えと考えられています。なぜ天台宗の青蓮院に浄土真宗親鸞が、という話はのちほど。

楠は最大のものは高さ26m以上、樹冠も素晴らしく京都市の天然記念物に指定されています。奥には長屋門が見えています。

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青蓮院は明治期の大火災で焼失しており、今ある建物はいずれも寄進による移築などで、そう古い建物はありません。

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入口には紅葉が見事に色づいていました。

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青蓮院門跡の拝観料も将軍塚と同じく500円です。青蓮院は、三千院妙法院と併せて天台宗三門跡と呼ばれています。そういえば、オーストラリア人の友人を伴って、三千院近くの八瀬のかまぶろ温泉へ行ったことがあったなぁ。

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最澄が紹介した故事、照于一隅(しょうういちぐう)からの一文がしたためられています。

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華頂殿の屋内には六歌仙の額絵が掲げられていますが、この様子を紹介している記事を見てここへの来訪を決めたのでした。額絵はもっと大きいかと思っていましたが、ごく普通サイズ。

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併せて注目したいのが蓮の襖絵。

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各部屋に描かれている蓮の襖絵は画家木村英輝が奉納したものなのですが、この人の経歴が興味深い。

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京都市立芸術大学卒業後、ロック音楽のプロデューサーになり、さらにデザイナーとしても前衛的な広告作品などを手掛けたあと、60歳にして画家宣言。

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2005年に奉納された襖絵はアクリル絵の具で描かれており、色鮮やかで躍動的。各部屋ごとにテーマがあるようです。

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蓮だけでなく、トンボやカエル、カニなども配されていて新しい襖絵の世界。ほかのどの作品を見ても、大胆な構図や色、溢れるエネルギーが感じられるのがこの人の特徴。

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ロックな絵画絵師を自称する木村の作品ですが、それでも意外と違和感がないところが、華頂殿の魅力となっていると思います。

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一方、華頂殿からは伝統的な庭を眺めることもできます。

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室町時代の相阿弥の作と言われており、正面に見える龍心池には二千貫(7.5t)近い大石と、跨龍橋が配されています。右に見える赤松も目を引くし、色のコントラストがいい。ここに座って庭を鑑賞している人が多くいました。

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華頂殿から小御所へ向かいます。平安時代門主の居間として、仮御所として使用されていたときは後桜町上皇がお使いでしたが、明治中期に火災で焼失後、江戸中期の建物を移築しています。

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華頂殿から続く廊下は、さ、さむい・・・足先が凍ってきます。

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廊下からは小御所宸殿へ通じるようになっています。

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明治天皇もしばしば使われていたという小御所、いやぁ・・・でも、寒い。11月末でこれならば、真冬の京都の底冷えを当時はどうやって過ごしていたんでしょうね。

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小御所から見た相阿弥の庭。こちらからの方が大石と、跨龍橋がよく見えます。

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宸殿(しんでん)へ移ります。宸殿は門跡寺院特有のもので、主要な法要を行うところです。

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歴代門主の中に慈円(じえん)という僧がいらっしゃいました。慈円はほかの宗派に寛大で、親鸞慈円のもとで得度しています。親鸞浄土真宗の宗祖でありながら、青蓮院の楠を植えているというのはそういった経緯からです。

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その親鸞が師と仰いでいた法然は浄土宗の開祖ですが、もとは天台宗で学んでいます。浄土宗を説いたことで天台宗からの迫害を受けてしまいますが、慈円法然にも寛大だったそう。

ただ、知恩院の敷地については青蓮院側の恨み節が公式HPから聞こえてきます。青蓮院側は徳川氏に今の知恩院の土地を取り上げられたと言い、知恩院の公式HPでは家康、青蓮院の地を割き寺地堂社を造営と書かれているとおり、浄土宗徒であった家康がその力を持って、青蓮院に今の敷地と将軍塚だけを残し、かなりの面積をぶんどっちゃったんですね。皇室ゆかりの門跡寺院と将軍家とのこの時期の力関係が表れているのでしょうか。このあたりの話が私にでもわかる歴史小説ってないのかなぁ。

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青蓮院には相阿弥の庭のほか、小堀遠州作の霧島の庭、大森有斐の庭など趣の異なる庭がいくつかあります。せっかくの回遊式庭園ですが、すっかり足が凍えたうえにランチの時間も逸しているので、見学はこれで終了。さて、なにを食べよう?