2024年(令和6年)5月18日(土)
相棒が入院。1日だけあったフリーの日、来年度のANAダイヤモンド継続も目論んで、ひとり株主優待枠で飛んでいます。前回は米子空港からJR米子駅まで、ゲゲゲの鬼太郎だらけだった話を書きました。
ところで今回の旅行は米子空港で降りているので鳥取の括りになっていますが、目的地は島根です。JR米子駅から電車やバスで2kmも移動すれば、どじょうすくいの安来節で有名な島根県安来市に入るので、島根県でも松江空港よりアクセスがいい米子空港をチョイスしました。

とはいえやはりここは鳥取県。バス停の行き先のほとんどは鳥取県内です。皆生温泉(いつまでたっても読み方が覚えられない「かいけ」温泉)、中国地方最高峰の大山(だいせん)などもここからバスが出ています。

米子空港へも、JR境線以外に空港バスで行くこともできます(ちと高い←交通費、嫌い)。

そんな中、乗り入れているのがお隣安来市広域生活バスであるイエローバス。1日に数本しか出ていませんが、ちょうどいい時間帯に出発する便があったので利用しました。でも、このバスを待っているときに「とっとり花回廊」行きのバス停を探している観光客と地元女性の会話を聞いてしまったんだよね。ん?そういえばそこへ行く計画を立てた覚えがあるな。

とっとり花回廊が気になる。スマホの予備電源を持っていない中、なんとか今回の旅程に組み込めないだろうかと検索します。イエローバスはJR安来駅で5分ほど停車。

気もそぞろの中、40分の乗車はあっという間。目的地に到着です。でも、とっとり花回廊へ行くには歴史資料館で時間を消費するわけにはいきません。

隣の道の駅も覗いてみました。

ここらあたりは戦国大名尼子氏歴代の治めていた地で、本城である月山富田城とその防衛線である尼子十旗と呼ばれる10の支城、そしてそれらを繋ぐ10の城砦である尼子十砦に囲まれています。

道の駅の中で見つけた甲冑は、戦国尼子にちなんで5年毎に開催される戦国尼子フェスティバルで使われた、手作りの甲冑なんだって。すごいクオリティ。

広瀬絣センターの一角を道の駅として利用しているようです。織物の伝承館としての役割がこの建物の主目的らしく、ずらりと機織り機が並んでいました。

月山富田城のほかに、本命の目的地が近くにあります。でもすっかり頭の中はとっとり花回廊。どうにかして間に合わせるために、バスの時間もチェックしました。只今の時刻は10:36。バスは11:20発です。

とにかく月山富田城跡を目指しましょう。標高190mの月山を中心にして築かれた複郭式の山城である月山富田城(がっさんとだじょう)。歴史に疎い私はなにもわからないままに、来たからには制覇しようじゃないかとスタートします。

頭の中は11:20に間に合わせるために、どこまで行って諦めるか、いやとっとり花回廊を諦めるべきかの逡巡ばかり。

上っていくと兵士が勢ぞろいしたと言われる千畳平を経て、太鼓壇を通ります。太鼓壇は、通常は太鼓を打ち鳴らして時を告げ、非常時には家臣に合図を送った太鼓櫓が建っていたと言われる場所です。

尼子神社です。尼子氏は出雲を中心に山陰で勢力を持ち、長く月山富田城を本城としていました。

花ノ壇と呼ばれるここは、発掘調査で掘立柱建物等の施設跡が発見され、復元整備されています。

城内道を見渡せるようになっており、侍所として使用されていたほか、薬草の栽培もされていたと考えられています。

確かに千畳平や太鼓壇が望め、防衛拠点としての機能も持っていただろうことが窺われます。

月山の山麓には3000㎡あまりの平地があり、山中(さんちゅう)御殿と言われる建物がありました。近世初頭には城主の居館があったと推測されています。そしてそこから主郭部分へ向かっては、七曲りと言われる険しい軍用道が見えます(草に覆われていますが、木のない部分)。

尼子氏は、山口を本拠地とする大内氏と勢力争いをしていましたが、のちに大内氏を倒した毛利元就に滅ぼされています。ただ、この城には攻め入ることができないままであったと言い、難攻不落の城として知られています。

七曲りのスタート地点です。ここ以外に主郭部への道はありません。七曲りと呼ばれますが、実際には11カ所の曲りがあります。

月山富田城は100名城にも名を連ねる歴史的価値の高いお城で、ガイドツアーも開催されています。七曲りに入る石垣の前で、ガイドさんにレクチャーを受けている人たちに出会いました。

七曲りを駆け上がっていると「親子(しんし)観音」がありました。ええ、駆け上がっていました。バスの時間が気になって。

親子観音には諸説ありますが、毛利元就の時代より後に出雲松江藩2代藩主となった堀尾忠晴の時代のこと、一族筆頭家老の堀尾河内守とその子掃部による家督横領の陰謀が発覚し、切腹することとなったものを葬ったとされています。

山吹井戸は、尼子氏の時代からのもの。

中腹に井戸が湧く恵まれた地形に、難攻不落の一端を垣間見ることができます。

三ノ丸に到着しました。幅約30m×長さ約80m、石段を登ったところには門のあったと思われる礎石が残っています。

眼下には広瀬町の町並み、そして向かいの山には尼子十旗のいくつかも見えたはずです。

北方には中海、島根半島、そして日本海が望めます。当時の交通、経済、軍事の重要な地域です。

続く二ノ丸。発掘調査により建物跡が確認され、現在の東屋はその痕跡を元に建てられています。

三ノ丸に続き、ここからも日本海などが望めます。画像にある説明によると、毛利軍は左手に見える山に自陣を構えましたが攻め入ることはできず、兵糧攻めで尼子氏を窮地に追い込んだそうです。

城を守る工夫は随所にされており、石垣を積んでわざわざ左に見える狭い通路を通らなければならないようにしたこともそのひとつでした。

年表には、保元・平治頃(平安時代末期)「平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城した」との伝承をはじめにして、1611年堀尾忠晴が松江城に移って廃城になるまでが書かれています。

本丸です。奥に見えるのは明治期に建てられた山中鹿介幸盛記念碑。尼子氏が毛利元就に滅ぼされたあと、御家復興をかけて毛利家と戦うのですが、その中心となったのが家臣、山中鹿介でした。

本丸からも中海、島根半島、日本海です。出雲平野と並び主要な穀倉地帯である能義平野も眼中に届き、戦いの際には遠くを見渡せる月山富田城、敵の動向を早期に察知できたことでしょう。

本丸に建つ勝日高守神社は古事記にその記載がある古い神社で、月山富田城の築城前からここにあったと言われています。歴代城主の信仰は厚く、特に尼子氏はとても熱心でした。

時代が前後するので後回しにしましたが、太鼓壇に尼子家再建をかけて戦った山中鹿介幸盛の像がありました。安来市のヒーローとして人気が高く、七難八苦の悲運の戦国武将と呼ばれています。男性観光客ふたりが「鹿介、かっこいいな」と称えていたので、歴史に疎い私はその人気ぶりに驚かされました。

下山すると最後に尼子興久の墓がありました。

尼子家の系譜を見ると、どうやら塩冶家に養子に行った塩冶興久のことかと。歴史には疎いので、いつかまたどこかで点が線となる日があればと、ちらりと調べた話。重要人物かどうかは・・・?

なお、季節柄緑に覆われているために険しい軍用道の七曲りもわかりにくかったのですが、本来このお城はその全景を向かいの山から見るのがセオリーかと思います。

川を挟んで向かい側には尼子十旗の城址がいくつかあり、なかでも勝山城からの眺めが最高らしい。

これがそうかどうかはわかりませんが安来市観光ガイドから拝借したこちらの画像を見たら、私の鈍い説明を最後まで辿っていただいたご褒美になるかと。

ね、行ってみたいと思うでしょ?桜や紅葉も美しいようなので、是非お出掛けくださいませ。私も再訪してみたいです。
ちなみに、尼子興久の墓に12:19着。わずかに12:20のバスには間に合いませんでした。ただ、バスは広瀬町内をウロウロと巡回してから移動するので途中でバスを見かけており、ルートを把握していたらどこかのバス停で乗れたように思います。残念。歩いて次へ向かいます。