2025年(令和7年)8月10日(日)
今年の夏休みは5泊で東欧を回りました。前回はルーマニアの避暑地シナイアから日帰りで訪れた中世の街並みが見られるブラショフ旧市街のうち、白い塔と黒い塔へ行った話を書きました。
※Brașovはブラショフと発音すると思っていたのですが「ルーマニア語はスラヴ語のように語末の v が無声化して f になることはない」とはっきり書かれており、カタカナ表記はブラショヴが正しいようです。ただ、日本では圧倒的にブラショフと記載されていることが多いのでそれに従っています。
黒い塔から下ってきました。公園に双子のラペダトゥ兄弟の像(Double Monument Lapedatu)が見えます。学者であり政治家だった彼らは共産主義政権に弾圧され、不遇の最期だったようです。

先へ進むと観光案内所があります。そもそもブラショフは12世紀にハンガリー王ゲーザ2世がザクセン人(ドイツ人)を入植させたことに始まります。ドイツ人がブラショフを建設したことにより、先住のルーマニア人は城壁より外のスケイ地区(Șcheii Brașovului)への移住を余儀なくされました。

観光案内所前を左折するとスケイ門(Poarta Șchei)があります。交通量の増加に伴って1825年に建てられたものですが、ドイツ人とルーマニア人の居住区を分けるものでもありました。

スケイ門の西側にも、同様に1559年に建てられたエカテリーナ門(Poarta Ecaterina)
があります。

ルーマニア人は他の門の使用は許可されておらず、特定の時間にのみこのエカテリーナ門から城塞内に入ることができました。城塞内で農産物を販売するためには、門で通行料を支払わなければならなかったと言います。

門をくぐるとかつてのドイツ人居住区です。そういうわけで、ブラショフ旧市街はドイツの街並みを色濃く残しています。

スケイ門に続く通りの先に、赤いボーダー柄の建物が見えています。残念なことに撮りそびれているのですが、ここに同じような赤いボーダー柄のある1901年築のシナゴーク(ユダヤ正教会)が建っています。正式な入植許可は先のことになるものの、15世紀にはすでにユダヤ人が住んでいたようです。

トゥンパ山(Tâmpa)へのケーブルカーが見えます。上ることも考えていましたが、暑さでスルーしました。ただ、今は取り換え工事をしているという記事も見かけたので、運行状況は不明です。HPを見る限り、バスで代替運行をしているのかもしれません。

色とりどりの明るい建物が並んでいます。そういえば、シナイアの建物とは雰囲気が違うかも。奥には中腹に黒い塔も見えています。

黒い教会は、600年以上の歴史を持つこのあたり最大の中世の教会です。その名の由来は1689年のブラショフ大火のためとも、その後の工業化に伴う大気汚染のためとも言われています。白い塔や黒い塔から眺めましたが、近くに寄ると大きすぎて全貌が撮れません。

これはもう、是非とも上から眺めていただきたい。建築に100年を要した堂々たる姿を見ないことには、印象自体も半減以下になってしまうことでしょう。

ミサの最中で、拝観開始まで30分ほど時間がありました。向かいの建物にチケット売り場があります。

拝観料は25RON(880円)で、高くはないけど安くはないというあたり。炎天下で待つのが嫌だったので先へ進むことにしました。

チケット売り場の中はお土産物なども売っていて、このぬいぐるみたちがかわいい。ふだんはむしろ避けるぐらいなのに、なぜか海外へ行くとぬいぐるみが気になって、つい買ってしまいます。今もあるのはクロアチアで購入したサンタクロースだけなのだけど。

ブラショフ旧市街中心地となるスファトゥルイ広場(Piața Sfatului)に出てきました。1420年築の旧市庁舎の建物があります。今は博物館になっているようですが、近づいてもいません。そう、広場に出てくるとなぜか見回して終わるのが常なのですーー;

スファトゥルイ広場から黒い教会を振り返ってみました。上から見ると素晴らしいゴシック建築だということも感じられますが、地上からはその色のせいもあってむしろ存在感は薄いかも。ほんと眺めておいてよかったです。

その黒い教会を最初に眺めたのは白い塔からでしたが、その塔が山の中腹あたりに見えています。前回、背後から撮った円柱が実は半円柱形だという話を書きましたが、こちらから見ると逆に半円柱の片鱗も感じられません。

ところでこのスファトゥリ広場は、マルクト広場として商業の中心地でもあったのですが、広場の中心にピロリ―(首枷)があり魔女狩りの処罰や晒し刑、その他、斬首刑も行われたそうです。ひぇ~

広場のまわりには多くのレストランがありますが、大混雑。

ソフィアのヴィトシャ大通りと同じく、テラス席は賑わっていても店の中は空いているというパターンは多いかもしれません。

でも、これが最後の食事になるので慎重にお店を選びます。候補のお店はバス停近くまで戻るので、ハズレなら戻ってくることになってしまうけど、ひとまず進みます。

旧市街のメインとなるリプブリチイ通り(Strada Republicii)は観光客で溢れていました。

ちなみにブラショフは共産主義政権下の時代に、一時スターリン市という名称になっていたようです。サンクトペテルブルクがレニングラードだったような話かしらね。
続く 【ルーマニア】中世の街並みブラショフの「Sergiana」で最後のランチ