2021年(令和3年)12月19日(日)
ANAの今週のトクたびマイルを利用し、6,000マイルで高知へやって来ました。前回は300年以上続くという高知の日曜市の話を書きました。
歩きながら日曜市を見ていくと、最後はちょうど高知城に到着するようになっています。10年以上前に高知を訪れたとき、高知城は間違いなく見学済み。でもまったく記憶にないので行ってみましょう。国内旅行も日帰りばかりなので中心部のみ訪れることが多く、割と頻繁にお城に遭遇しているように思います。
高知城は、天守閣と追手門を同時に眺められるところが珍しいんだって。そんなこと、考えたことなかったなぁ。
追手門の前には、国宝高知城と書かれています。1871年(明治4年)に軍用財産にするほかは廃城令をもって破却や払下げを行っておいて、たった60数年後の1934年(昭和9年)には国宝に指定って、なんかねぇ。昔も今もなっとらん。なんのために歴史を学んでいるんだろう。過去の経験を活かさない国だと思うわ。
追手門のところでは、ボランティアの人が説明をしてくれます。本丸御殿までの無料ツアーもあるようです。
ボランティアの方は、門についている乳金物(ちちがねもの)には何のご利益もないのに、その名から連想させるそれを触っているつもりなのか、つやつやになっているという話をされていました。
追手門は桝形の巨大な石垣で囲まれており、敵に対して3方から攻められるようになっています。2階部分には石落としもあり、石や鉄砲での攻撃も可能。
出入りはどこからするのかと思ったら、石垣に階段が設けてありました。
これを駆け上がったり、下りたりってかなりハードじゃない?多少崩れているだろうとはいえ、背も低かっただろうその時代、足だって短かったろうに。
自由民権運動の父、板垣退助の像がすっくと立っています。板垣死すとも自由は死せず、土佐藩上士の生まれです。
さらに階段を上ります。ちょうどこの期間の夕刻には、高知城をプロジェクションマッピングで彩るという光のフェスタを開催していました。
足元にも夜に向けての照明が準備されていましたが、残念ながらそのころはもう飛行機の中なので見られません。
次は土佐藩初代藩主山内一豊の妻の像がお出迎え。千代は内助の功で夫を助けた賢妻として有名ですが、この像は嫁入りの持参金を夫が名馬を買うために差し出したという逸話がモチーフになっています。
石垣の形が気になります。近江の技術集団穴太衆(あのうしゅう)によって、自然の形の石をそのまま積み上げる野面積みという方法を採っています。一見雑なようでいて排水力も高く、緩く湾曲させてあることで頑丈な造りなのだそう。
詰門まで上がってきました。詰門は本丸と二の丸のあいだを埋めるように建てられています。右が二の丸側の石垣。
左が本丸側の石垣。一階部分は非公開ですが、敵がまっすぐ抜けられない仕組みに作られており、籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっています。
二の丸側へぐるりと回っていくと、詰門2階に入れるようになっています。中は廊下になっていて、手前から平侍・中老・家老の順に部屋があります。
振り返るとこんな感じ。たいして、身分の違いを感じないかも(笑
詰門を抜けたらあたかも本丸に入れるそうに見られるのに、どこにもつながっていません。ここへ抜けてくるのみ。
抜け出た先には本丸を囲む櫓のひとつ、西多聞が建っています。長屋状の建物で、この反対側は切り立つ石垣の上になっています。
高知城は明治以前に築城された現存天守12城のうち、唯一、天守と本丸御殿のほか、城門、櫓、塀などが揃っているお城です。
最初に入った納戸蔵には、駕籠が置いてありました。山内家の家紋は三つ柏で土佐藩船の船印として使用されていました。岩崎弥太郎が三菱を興すとき、岩崎家家紋の三階菱と統合させて会社のロゴにしています。
本丸御殿へ入って行くと、黒潮をモチーフにしたうちわけ波の欄間が見られます。シンプルに黒潮を表した近代的なデザインです。
住宅様式は書院造。主室の床が一段高くして上段にしてあります。
部屋の外まわりは建具が立てられ、その向こうの矢狭間塀には、監視範囲を広く取った物見窓が見えます。
主室には、土佐藩15代藩主山内容堂(豊信)の書が掛けてありました。
気になるのは上段にあるこの扉。書院造の部屋飾りで帳台構えと言われるものですが、何か大事なものが納めてあるようにも見えますよね。
裏へ回ってみると、4畳敷ぐらいの小さな部屋。この部屋は護衛の者が控えている武者隠しといわれる納戸で、そばには雲隠ノ間と呼ばれる藩主しか使えない雪隠(トイレ)がありました。
場内には、石落としがいくつも見られました。石を落とすだけでなく、弓や鉄砲、槍などで攻撃を加えるほか、熱湯も落とすんですって。それが一番怖いかも。
高知城築城時のジオラマ、なかなか人物にも表情があってユニークでしたよ。
天守に上ります。
横から見るとこの急勾配。手摺必須です。
国内のお城が紹介してありました。天守と本丸御殿が残っているのは唯一、高知城のみと紹介しましたが、天守と追手門が揃っているのでも高知城のほか、弘前城と丸亀城しかありません。
日曜市を開催している東方向です。JR高知駅もこの方角。
下に目を向けると、追手門から天守へ上ってきたルートが見えます。奥に向かって並木道が見えるのが日曜市の開催場所。
鯱(しゃちほこ)も見えます。名古屋城の金の鯱などのようにお金はないので、青銅製だとボランティアの方が笑って教えてくれました。
天守の入口側です。正面に西多聞、右側に詰門から続く東多聞、左側には黒鉄門が見えます。
上から見た黒鉄門がこちら。藩主が行事の際に出入りする門です。護りを堅固にするため、扉の外側には鉄板が打ち付けられているのがその名の由来。2階には武士が隠れられるようになっており、ここにも石落としが設けられています。
鐘撞堂は3度場所を移動してここに落ち着いたそう。今は中腹あたりにあります。なんでも一度は、鐘の音がうるさいから遠ざけたんだって。
見上げると忍び返しのついた石落としなどが見られます。これは現存するものとしては全国唯一の忍び返しと紹介されていました。ほぉぉ・・・
まだまだ見どころもあった高知城、そろそろランチの予約時間が迫ってきたので、先を急ぐことにします。