2018年(平成30年)5月
行きは、寝ては観て、見ては寝ての繰り返しでした。
これは観たかったな~ でも、なぜか帰路も見直さず。
人口問題対策により、人類縮小計画が施行された未来。
娘を殺害された母親が警察を批判する看板を設置したことから、予期せぬ事件が起こるサスペンス。寝起きでボーっとついそのまま見てしまい、結末を先に知ってしまって、
また戻ってみる気になれずに次へ。
きちんと観たといえるのは1本のみ。
1994年のリレハンメルオリンピックへの出場権を巡って、元夫らにライバルのナンシー・ケリガン襲撃を命じたと疑われ、一躍時の人となったフィギュアスケート選手、トーニャ・ハーディング。彼女に多大な影響を与えたと言われる母親との関係や、
衝撃的な事件の経緯などを追った人間ドラマ。
育ちは悪く教養もなく、母親からも到底愛されているとは思えない。
それでも大好きだったスケート、事件後の採決の結果、様々な権利を剥奪され、競技には戻れなくなった。
貧困と無知は、それだけで罪なのか。
その環境に産まれてきた者は、何も手に入れてはならないのか。
はたまた、この映画は結局、何を伝えたかったのか。
これが、真実だったとするなら、トーニャも被害者だったと?いやたぶん、違う。
トーニャのその後は、決して庇いたてられるような人生ではない。
誰もにあった青春の1ページの作品。
親への反抗、なんにでもなれると思っていた若き日々、恋。
でも、私にはそんな日がなかったのか、はたまた遠い昔過ぎて思い出せないのか、なにこれ~?で終わってしまった。
それならむしろこっち。
田舎町アリゾナに住む少女オリーブ、なんともブサイクでおデブちゃんな彼女が、全米美少女コンテストでひょんなことから地区代表に選ばれた。オリーブ一家は黄色のオンボロ車に乗り、決戦の地カリフォルニアを目指すことに。
人生の勝ち組になることだけに没頭する父親、ニーチェに倣い信念で沈黙を貫く兄、ゲイで自殺未遂の叔父、ヘロイン吸引が元で老人ホームを追い出された不良の祖父、そしてバラバラ家族をまとめようと奮闘する母親。そんな落ちこぼれ家族の、奇妙でハートフルな旅の話。
2006年の古い作品で、思いっきりバカバカしい、でも、何とも言えない温かさがありました。落ちこぼれ家族は、決して立ち直ろうとはしておらず、だけどなぜか、その旅の中で力をつけていく様に、知らずうちに共感してしまう。
最後のダンスシーンのダサさがまたいい。
願い事が叶うまで決してしゃべらないという兄の役をしていたポール・ダノ、その独特の存在感を、他の作品で観てみたいなぁ。
ジェームズ・フランコが監督主演の映画なんですけど、まーったく意味が分かりませんでした。
史上最低の映画と言われた自主製作「The Room」の制作現場を描いていますが、なぜこれがカルト的に人気が出たのか、観る気になる人がなぜいるのか、さっぱり理解できませんでした。
ただ、この会談で解説されているのを読んで、なんとなく納得。
日本で公開されること、あるんでしょうかね~
日本でも公開されましたね~
1973年、日本を始め世界中を震撼させた誘拐事件があった。人質は【世界一の大富豪】であるアメリカ人石油王ジャン・ポール・ゲティの孫。
1,700万ドル(約50億円)という破格の身代金もさることながら、50億ドル(1.4兆円)の資産を持つゲティが身代金の支払いを拒否したことでも有名で、日本の新聞、週刊誌でも大きく報道された。
しかしこの事件の裏側で、誘拐犯と身代金を拒むゲティの間で戦い続けた人質の母親がいたことはあまり知られていない。
離婚で一族を離れていた“一般家庭の母”は、いかに2つの強敵に立ち向かったのか―
(公式HPより)
ワタクシ、カタカタに弱くて「ケネディ家の身代金」と思って見始めました。
暗殺されただけではなかったの? 一族に実業家がいたの?などと思いながら開始。
いや~ コワかったですね~ マフィアの非情さときたら、正視できないシーンもありました。
ゲティは身代金の支払いを拒否しますが、いったん応じてしまうと、14人いる孫が次々に誘拐されることになるという考えも含んでいます。それでも、この事件の傍らで、高額の美術品の購入に費やしてていたり、人間性を疑わされるシーンもあります。それだけの富を築ける人間には何か違うものがある、そういう凄みも感じましたね。
そのゲティ役は、スキャンダルで降板になっているのですが、代わったクリストフファー・プラマーが最高に良かったです。
これを書くまで気づかなかったのが、孤軍奮闘戦う母親役ミシェル・ウィリアムスは、
映画をご覧になる方は、映画.comの解説を読んでから行かれると、なお一層、楽しめるのではないかと思います。
その後、リアルのゲティ家の孫ジョン・ポール・ゲティ3世は、誘拐による精神的なショックからドラッグ中毒になっています。1981年には肝不全、脳梗塞などの合併症を発症し、視力をほとんど失いました。長く母に看病されたのち、2011年54歳で亡くなっています。
戦いつくして取戻した息子のなれの果てがこれだったなんて、気の毒過ぎです。